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名古屋地方裁判所豊橋支部 昭和45年(わ)195号 判決 1974年6月12日

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実の要旨

本件公訴事実の要旨は、

「被告人は、昭和四三年五月ころから豊橋市八通町五三番地増田文房具店こと増田正明方において店員として稼働していたものであるが、昭和四四年ころから性的刺激の強い週刊誌、雑誌等を読みふけり、異性との肉体関係に異常な関心を持つようになつていたところ、たまたま昭和四五年五月一四日右正明が万国博覧会見物に赴き、同夜同人方は同人の妻みつる(当時三五年)、長男敏彦(当時三年)及び次男充彦(当時一年)の三名しかいないことを知り、その機会を利用して右みつるを強姦し性的欲望を満足させようと企て、同日午後一一時過ぎころ右増田方二階に至りその折を窺つていたが、

一  翌一五日午前零時過ぎころ、同家二階寝室にいた右みうるの姿態を見て同女を強姦しようとして同女に立ち向つたところ、同女が強硬に反抗したので、右目的を遂げるため、及び、自己の非行の露顕することを恐れるあまり、同女を殺害するほかないと決意し、右寝室に同女を仰向けに押し倒して馬乗りになり、その場にあつた電気コードを両手に持つて同女の頸部を上から強く押さえつけ、さらに、右コードを同女の頸部に五回巻きつけて締めつけ、よつて、同女を即時同所において窒息死させたが、姦淫前に射精したため、強姦の目的を遂げず、

二  自己の小遣銭に充てるため、及び、自己の犯行を他の強盗犯人の犯行であるように装うため、右犯行直後、同家二階応接間においてロッカー内の手提金庫から右正明所有の現金約一一万四、〇〇〇円及びタンス上にあつた右みつる所有の現金約一、一〇〇円在中の免許証入れをそれぞれ窃取し、

三  右犯行直後、自己の犯行を隠蔽する目的で、右敏彦及び充彦が就寝中であることを知りながら、右両名を焼死させるもやむを得ないと考え、右増田方二階に放火しようと企て、

(一)  同家二階寝室において、右みつるの死体思辺に衣類新聞紙等を多数まき散らしたうえ、右みつるの死体の腹部付近の衣類、同死体の足部付近の新聞紙及び衣類、右寝室西側北寄りのタンス前付近の衣類、右敏彦が就寝中の布団の東側部分、右敏彦及び充彦の間の新聞紙及び衣類に順次マッチで点火し、よつて、現に右敏彦及び充彦が現在する右増田方居宅(木造二階建瓦葺住居兼店舗)の一部44.2平方メートルを焼失させて焼燬し

(二)  その際、右火災のため右敏彦及び充彦を焼死させたものである。」

というのである。

第二序説

<証拠>によると、昭和四五年五月一五日午前一時四〇分ころ、豊橋市八通町五三番地増田文房具店こと増田正明方居宅(木造二階建瓦葺住宅兼店舗)二階から出火し、同家二階を全焼して、同日午前一時五六分ころ鎮火したが、右火災が何者かの放火によるものであること、また、右二階寝室から、右正明の妻みつる(当時三五年)、長男敏彦(当時三年)及び次男充彦(当時一年)の各焼死体が発見されたこと、右みつるは、白ナイロン製女物シャツ(昭和四六年押第九号の九)、シュミーズ(前同号の八)、カーディガン(前同号の七)及びスカート(前同号の一〇)を着用していたが、スカートは腹部付近まで押し上げられ、下半身裸体で、両足を八の字に開いた仰向けの姿勢であり、頸部には白ビニール被覆の電気コード(前同号の六)が六回巻きつけられており、同女の死因は絞頸による窒息死であること、右敏彦及び充彦はいずれもパジャマを着ていたが、火災による創傷以外に生前の著しい損傷がなく、死因はいずれも一酸化炭素中毒であること、以上の各事実が認められる。そして、右被害状況に照らすと、何者かが右みつるを殺害した後、右増田方居宅二階に放火し、その結果右敏彦及び充彦を焼死させたことが明らかであつて、本件公訴事実中、被告人の犯行であること、犯行の動機及びその具体的態様、被害者みつるを殺害した目的、現金等の窃取の各事実以外の事実については証明十分である。

ところで、本件記録によると、被告人は、捜査段階において当初本件犯行を否認していたが、その後種々その供述内容に変貌がみられたすえ、最終的には本件公訴事実に符合する供述をし、第一回公判期日においても本件公訴事実を全部認める旨陳述したこと、しかしながら、第二回公判期日以後は終始本件犯行を否認していることが明らかである。そして、本件においては、犯行が被告人の所為によるものであるとの点について、被告人の右捜査段階及び第一回公判期日における各自白以外に直接証拠は存在しない。そこで、まず、被告人の自白の任意性、信用性について判断し、次に情況証拠を検討することとする。

第三被告人の自白の任意性、信用性についての判断

一まず、被告人の本件犯行についての供述内容に変還があるので、その経過を検討する。

<証拠>によると、次の各事実が認められる。

(一)  被告人は、本件事件発生直後警察員から取調べを受けた後、昭和四五年五月下旬ころ及び同年六月中旬ころそれぞれ連続三日間、早朝から深夜まで警察官から取調べを受け、さらに、同年八月二五日から同月二七日まで毎日警察官の取調べを受けたが、その間、警察官に対し、事件当夜は、バスケットボールの練習が終つた後、午後一一時ころまで友人達と菓子店の前で立ち話をしてから、そのまま自分の居住していた広中アパートに帰つたのであつて、同夜被害者宅である前記増田方には立ち寄つていないし、勿論本件犯行を犯していない旨一貫した供述をしていた。

(二)  ところが、被告人は、同年八月二八日の警察官の取調べの際、本件犯行を犯してはいないが、被害者宅に立ち寄つた旨初めて供述を変えた。そして、被告人は、同日午後九時三〇分ころ、愛知県豊橋警察署において逮捕されたが、弁解録取の段階になり、再び被害者宅に立ち寄つていない旨の供述に戻つた。

(三)  被告人は、翌二九日午前からの警察官の取調べの際、最初被害者宅に立ち寄つていない旨供述していたが、その後、被害者宅に立ち寄つた旨供述を変え、同日深夜、前記被害者みつるから夜遅くまで遊んでいたことを注意されたことに立腹して同女と口論し、憤激のあまり電気コードで同女の頸部を締めて同女を殺害し、現金約一〇万円、同女の現金在中の免許証入れ一冊、指輪一個を窃取した後被害者宅二階寝室に放火した旨初めて自白し、盗品については、数日後自分の居住していた広中アパートの便所に捨てた旨供述した。

(四)  その後、被告人は、同年八月三〇日の検察官の弁解録取、同月三一日の裁判官の勾留質問の際にも右自白と同趣旨の供述をしたが、同月三一日、警察官に対し、指輪は豊橋市内を流れる豊川に捨てた旨供述を変えた。そして、被告人の右自供に基づき盗品の捜索がなされたが、盗品は発見されなかつたところ、被告人は、同年九月上旬ころ、警察官から盗品の処分について改めて取調べを受けた際、再度、本件犯行を全面的に否認し、被害者宅に立ち寄つていない旨供述した。

(五)  次いで、被告人は、同年九月七日、警察官に対し、本件公訴事実に概ね一致する内容の自白をしたが、本件犯行は計画的なものではなく、犯行当日被害者宅に立ち寄つた際、寝室にいた前記みつるの乳房やパンティを見てにわかに劣情を催し、同女に肉体関係を迫つたところ、激しく抵抗されたため、同女を殺害したものであり、また、盗品は、現金約一一万円及び同女の免許証入れだけであり、右盗品のうち現金九万円及び免許証入れは、豊橋市伊古部町字繩手C一五八番地市営埋立地に被害者宅の焼け残つた家具等を捨てにいつた際、同所に右家具等と共に秘かに捨ててしまつた旨供述した。

(六)  被告人は、その後の警察官及び検察官の取調べにおいても同趣旨の供述をしていたが、同年九月一三日以後の捜査官の取調べにおいては、右みつると肉体関係を結びたくて被害者方に立ち寄つた旨供述を変えた。

(七)  被告人は、同年九月一九日起訴されたが、同月二二日、当時の勾留場所であつた代用監獄愛知県豊橋警察署留置場から、増田正明宛に手紙(昭和四六年押第九号の一八)を出した。同手紙には、右正明、同人の妹増田征代及び同人母に対し、今まで欺き続けてきたことを詫びると共に、本件犯行を犯し同人らに非常に迷惑をかけたことを謝る旨記載されているが、被告人が本件犯行を犯した旨の直接的表現はなく、単に「あんな事をしてしまつた」又は「申し訳けないことをしてしまつた」という漠然とした表現がとられている。

(八)  被告人は、同年一〇月三日選任された国選弁護人弁護士影山正雄と右留置場において二回面接したが、右弁護人に対し、本件公訴事実を否認する意思を明らかにしたことはなかつた。そして、被告人は、同年一一月四日の第一回公判期日において本件公訴事実は全部相違ない旨供述した。

(九)  被告人は、同年一一月七日右留置場から豊橋刑務支所の拘置監に移監された後、同年一二月一九日、右拘置監から前記正明宛に郵便書簡(前同号の一〇三)を出した。同書簡には自分が犯人でないことが婉曲に述べられている。即ち、同書簡には、以前就寝時に右正明に対し語つたことが自分の本心であり、事件当夜、被害者宅に立ち寄つていれば本件事件は起きなかつた旨記載されており、末尾には、同書簡を読んだ後に必ず捨て去るよう強く依頼する旨記載されている。

(一〇)  被告人は、昭和四六年三月一七日の第二回公判期日において、本件公訴事実を全面的に否認し、その後の各公判期日を通じ一貫して否認を続けている。

二被告人の自白の任意性について

弁護人は、被告人の捜査官に対してななされた自白は、捜査官の偽計、誘導若しくは強調によるものであり、その供述はいずれも任意性がない旨主張する。

しかしながら、被告人の当公判廷における供述の一部、証人鬼武重寿、同堀内誠の当公判廷における各供述によると、被告人の取調べに当つた警察官は、被告人が供述を変転させる毎に、以前になした供述との矛盾点等を指摘して、長時間に亘り、激しい口調で相当厳しい取調べをし、殊に、被告人が被害者宅に立ち寄つていない旨供述したり、本件犯行を否認したときには、証拠があるからそのような弁解をしてもむだである旨強調するなど、被告人を犯人と決めつけるようないささか妥当性を欠く取調べをしたことは認められるが、被告人の取調べに際し、検察官及び警察官が、特に偽計、誘導若しくは強制等をした事実は認められない。なお、被告人は、当公判廷において、被告人が犯行を否認すると、警察官から、被告人の首を押え、小突き、足を蹴るなどの暴行を加えられた旨供述しているが、右供述部分は、証人鬼武重寿、同堀内誠の当公判廷における各供述に照らし、たやすく信用できない。また、前記一のとおり、被告人は、捜査段階において供述を再三に亘り変転させているが、この事実をとらえて、捜査官が取調べの際被告人を誘導し又は強制したことの証左とすることは早計であり、むしろ、右供述の変遷は、被告人が真実の自白をするまでの過程とみるか、あるいは、被告人の主張するように、被告人が捜査官の厳しい取調べからのがれたい気持から、捜査官に迎合した供述したことの証左と解するのが相当である。そして、本件全証拠を精査しても、被告人の捜査官に対する自白が任意にされたものでないことを疑わせる証拠はないから、被告人の捜査官に対する自白は、任意性はこれを肯認することができる。

そこで、次に被告人の自白の信用性について判断する。

三被告人の自白の信用性について

(一)  前記一において検討したとおり、被告人の本件犯行についての供述は、目まぐるしく変転しているが、単に自白と否認という供述の変転があるだけではなく、各自白の具体的内容においても、犯行の動機、盗品及びその処分態様等重要な事項について供述の変転があることに鑑みると、被告人の自白の信用性に一応疑問を持たざるを得ない。

ところで、証人丹羽照邦、同鬼武重寿は、いずれも、当公判廷において、被告人は、逮捕後一旦自白したが、昭和四五年九月初旬になり、再び犯行を否認したので、同月七日夜、本田捜査第一課長が、自己の生い立ちや人道的な話をしながら真実を話すように説得したところ、被告人は、同席していた警察官丹羽照邦の腕にすがりつき、声を出して泣きながら、犯行の動機及び態様、偽装工作等詳細に亘つて自白し、「これでやつと胸のわだかまりがとれた」と供述した旨証言している。もし、右証言のとおり、被告人が右本田課長の説得により心から改悛して初めて真実を語る決意をしたものであれば、それ以前になされた供述は虚偽の内容のものであるから、供述に変更訂正があるのはむしろ当然である。ただ、従前の供述を訂正する際、故意に事実を歪曲していたとか記憶に相違があつたとかその理由を明確にすべきであるのに、右の点が十分明らかにされていない。そしてまた、ひとたび真に自白を決意して供述を始めたときは、枝葉末節に亘る事実を除いては、その供述内容に変更のないことが通例である。しかし、右本田課長の説得があつた以後の被告人の捜査官に対する自白(被告人の検察官に対する同年九月九日付、同月一二日付、同月一八日付、司法警察員に対する同月七日付、同月一〇日付、同月一三日付、同月一四日付、同月一五日付、同月一六日付、同月一九日付各供述調書)についても、以下述べるとおり矛盾点若しくは疑問点が存在するから、前記各証言はにわかに信用できない。

(1) まず、被害者宅に立ち寄つた目的について、テレビなどを見て遊ぶためという供述から、みつると肉体関係を結ぶためという供述に変わり、同女の頸部に電気コードを二つ折りにしたものを巻きつけた旨の供述から、一重にして巻きつけた旨の供述に変わり、同女のはいていた男物パンツを同女の陰部にかけた覚えはない旨の供述から、その覚えがある旨の供述に変わり、金庫の中からお金全部を窃取した旨の供述から、お札と目についた百円玉を窃取した旨の供述に変わるなど、しばしば供述の変転が認められるのに、その供述変更の理由については被告人から首肯し得べき説明がなされていないので、本件公訴事実に副うような内容の被告人の自白部分が真実であるとはにわかに断定し難い。そのうえ、被告人の供述どおり、被告人がみつるを殺害するに至るまでの間、同女が付近にあつた化粧品を投げつけたり、被告人の顔面を殴打するなど相当激しく抵抗したとすると、当然その際大声で助けを求めたものと考えられるから、幼児とはいえ敏彦及び充彦が目を覚ます可能性が大であるのに、その死亡状況からして同児らは眠むり続けていたと推定されること、及び、窃取した紙幣、硬貨の枚数など詳細に記憶していないと思われる事実については余りにも詳細な供述がなされている反面、放火の手段方法、状況については、被告人の全供述を通じ、その内容において具体性に乏しく、犯人のみが体験し記憶する状況について実感の伴つた説明がなされていないことなど、被告人の自白内容自体に不自然、不可解な点が認められる。

(2) さらに、被告人の自白内容には客観的状況と対比すると次の諸点について矛盾がある。即ち、

(イ) 被告人の自白によると、被告人は、事件当夜午後一一時を過ぎてから被害者宅に立ち寄つた際、充彦及び敏彦はまだ起きていて、遊んでいたことになつているが、第四回公判調書中の証人増田正明の供述部分によると、増田正明が事件当夜午後一〇時三〇分ころ、大阪から自宅に電話をしたところ、みつるは、子供達を風呂に入れて寝かしつけた旨話したことが認められる。

(ロ) 被告人の自白によると、被告人は、犯行直前にテレビで相撲ダイジェストの番組放映を見終わつたころ被害者宅のテレビのスイッチを切つたことになつているが、証人丹羽照邦の当公判廷における供述によると、被害者宅のテレビは、事件当夜、右相撲ダイジェストの番組を放映した中京テレビではなく、右番組と同時間帯にイレブンPMの番組を放映した名古屋テレビに同調した状態でスイッチが切られていたことが認められる。

(ハ) 被告人の自白によると、被告人が寝室にいるみつるの様子をのぞいた際、同女はカーディガンの前をはだけて乳房を出した状態であつたことになつているが、司法警察員木村武雄作成の昭和四五年五月一五日付実況見分調書によると、本件事件直後の実況見分の際、同女の死体が着けていたカーディガンの前ボタン七個のうち第二ないし第四ボタンがボタン穴にかかつていたことが認められる。しかして、みつるの死体の発見時の着衣の状況は、前記認定のとおり、女物シャツ、シュミーズの順序で身に着けていたが、シュミーズとスカートが共に乳房付近までまくり上げられていたものであつて、シャツ及びシュミーズ(肩紐の長さは調節できないもの)を着たままその上方から乳房を出すことは極めて難しく、かつ、被告人が殺害後ボタンをわざわざかけることは通常考え得られないので、同女が乳房を出していたことはあり得ないこととなる。もつとも、被告人の右自白は、その後、みつるはブラウスみたいなものを上にまくり上げて左乳を出していた旨変わつているが、これも右認定の着衣の順序と状況に照らすと矛盾がある。

(ニ) 医師古田莞爾作成の昭和四五年七月一六日付鑑定書、司法巡査鈴木三郎作成の同年五月一六日付現場写真撮影報告書によると、被害者みつるの死体には、右耳に長さ1.5センチメートルの創傷、右耳後面に長さ0.7センチメートル、同1.2センチメートル、同2.3センチメートルの各創傷があり、右各創傷はいずれも鈍体打撲による挫裂創であることが認められるところ、被告人の自白によると、被告人は同女を電気コードで絞殺する前に、同女に対し、顔面を手拳で二、三回殴打したのみであつて、右創傷を発生させるような暴行を加えた旨の供述は存在しないのであるから、被告人が自白したような態様の暴行を加えることによつて、前記各創傷の結果が生ずることは経験則上あり得ないことと言わねばならない。

(3) 被告人の自白内容中、犯人しか知り得ない重要な事実である盗品の処分についてはこれを裏付ける証拠が存しない。即ち、証人鬼武重寿、同青山俊治の当公判廷における各供述によると、捜査本部は、被告人の自白に基づき、昭和四五年九月一〇日から同年一〇月三〇日までの間連日に亘り、のべ約二万人の警察官を動員して、盗品の捨て場所と目される豊橋市伊古部町にある市営埋立地の一部、縦四五メートル、横四五メートル、深さ四メートルを掘り起こして盗品の捜索に当つたが、これを発見するに至らなかつたことが認められる。

そして、被告人の前記自白調書の内容を仔細に検討し、これを本件全証拠と対比して考察してみても、捜査官が、被告人の自白に基づいて初めて知り得た事実について、その後捜査を遂げた結果、右自白内容が客観的事実と符合することを明らかにし得たものはなに一つないと言つても過言ではない(なお、司法警察員高須周治作成の昭和四五年九月七日付捜査報告書によると、右司法警察員は、同年九月二日なされた電気コードを約一〇センチメートル位の間隔にして両手で持ち、みつるの頸部に押しつけて同女を殺害した」旨の被告人の殺害方法に関する自白に基づき、医師古田莞爾に対し、同女の死体の頸部の状況と右自白内容とは矛盾するか否かについて照会したところ、同女の前頸部中央部に水平に長さ八センチメートル、幅0.6センチメートルの索条痕が著明に出ているから、被告人の右自白内容と同女の死体の鑑定の結果とは矛盾しない旨同医師の回答を得たことが認められるが、捜査官は、同医師作成の昭和四五年七月一六日付同女の死体鑑定書等により、被告人が右自白をする以前に、同女の頸部に右索条痕の存在していたことについては、当然これを知悉していたものと考えられる。即ち、捜査官は、殺害の方法について、既に一応の知識を得ていたものと推定できるのであつて、被告人の自白によつて初めて知り得た事実とは必ずしも言うことができない)。

(二) ところで、証人鬼武重寿の当公判廷における供述によると、被告人は、警察官の取調べの際、犯行に至るまでの経緯、犯行状況、犯行後の偽装工作等について自発的に相当詳細な供述をしたことが認められるが、被告人の当公判廷における供述によると、被告人は、被害者の店で稼働していた者として、事件発生後、何回も被害現場の検証若しくは実況見分に立ち会わされ、また、本件事件の捜査経過に関する新聞記事を読んだりしていたたため、被害現場の状況、被害者の死体の状況等について、相当の予備知識を得ていたことが認められることに鑑み、右のような相当詳細な供述をなすことは十分可能であるということができる。以上を総合して考察すると、「取調べの過程において、捜査官から聞知した事実、並びに、新聞記事及び現場検証の立会い等で知り得た事実、さらに、平素被害者宅で経験していた事実等を基礎に、犯行状況を想像して自白した」旨の被告人の弁解は、不自然なものとして一概にはこれを排斥することができない。

(三)  このようにみてくると、「第一回公判が終了するまでは、警察署の留置場に勾留されていたため、犯行を否認すれば取調べを再開されるという恐怖心から、国選弁護人に対しても、また、第一回公判においても真実を語ることはできなかつた」旨の被告人の弁解はにわかに首肯し難いが、「捜査段階において、真実を述べても捜査官がこれを全く聞き入れてくれず、連日長時間に亘り執拗な取調べが続けられたため、早く取調べを終えてもらいたいという一心で、捜査官に迎合して虚偽の自白をしたものであり、留置場から増田正明宛に出した本件犯行を詫びる内容の前記手紙も、捜査官に促され、再度取調べを繰り返されるのを恐れて仕方なく書いた」旨の被告人の弁解は、前記一において検討した被告人の本件犯行についての供述の変遷経過、前記二において検討した捜査官の被告人に対する取調状況のほか、被告人が全く犯歴がないこと(この事実は、被告人の当公判廷における供述によりこれを認める)などを総合して考察するとき、信用できないものではない。

(四)  まとめ

右のとおり、本件犯行についての被告人の自白は、被告人が第一回公判期日において自白している事実を考慮に入れても、その信用性が高いものということはできない。そこで、さらに進んで、本件犯行についての情況証拠を検討し、被告人の自白と補強証拠である情況証拠と相俟つて犯罪事実を認定することができるか否かを判断する。

第四  情況証拠の検討

一本件犯行の犯人が被害者みつると面識がある者である可能性について

(一)  <証拠>によると、次の各事実が認められる。

(1) 前記増田正明方居宅は、木造二階建瓦葺住宅兼店舗であつて、階下は文房具販売用店舗で、南側の一部に便所、洗面所、風呂場があり、二階は南側から順に台所(一部洗面所と便所)、応接間、寝室の三室からなつている。

(2) 同家北側は道路に面し、階下出入口には六本のガラスの引戸があり、東側は彦坂只一方居宅に隣接し、右正明方居宅から四〇センチメートル隔てて高さ二メートルのコンクリート塀が南北に約九メートルに亘り設けられて境界になつており、南側は井沢正方居宅に隣接し、右正明方居宅から四〇センチメートル隔てて高さ1.64メートルのコンクリート塀(塀の土台部分は地表から高さ七〇センチメートルあり、北方に一七センチメートル出ている。従つて、土台と被害者方の間隔は二三センチメートルである。)が東西に約一一メートルに亘り設けられて境界になつており、西側は山本正司方車庫に接続している。

(3) 事件当日施行の実況見分の際、右正明方の階下北側出入口ガラス戸は閉つていたが、東側から二枚目と三枚目の間の内部施錠がなされていないため屋外からの出入は可能であり、さらに、南側風呂場の窓のガラス戸一本(縦六五センチメートル)が四八センチメートル開いていたうえ、風呂場の蓋三枚のうち真中の一枚が他の二枚の上に橋がけされた状態で置かれ、ここを足場にして窓から出入りできるようになつていた。しかし、同家南側には、前記のとおりコンクリート塀が接近していて通行は極めて不自由であり、同家の建物の形状、周囲の状況を知らない者が右風呂場の窓から屋内に侵入することは通常ではあり得ないことと考えられる。同家は右以外に階下、二階共戸締りに異常はなかつた。

(4) 右正明方階下店舗内には、机、保管庫、鞄等を物色したような形跡が残つているが、写真機等の貴重品や現金、小切手等は窃取されていなかつた。また、同家二階寝室のみつるの死体の左足先付近に平素応接間西側ロッカーの中に保管されていた手提金庫(昭和四九年押第九号の一三)が蓋が開いた状態で放置され、硬貨、手形、小切手等は残存し、紙幣のみ存在しなかつたので窃取されたものと認められた。しかし、二階応接間及び寝室には、数個の指輪、オリンピック記念硬貨等の貴金属があつたにもかかわらず、これらは窃取されていなかつた。

(二)  第六回公判調書中の証人井沢正の供述部分によると、同証人は、右正明方南側(裏側)に隣接した家屋に居住しているが、事件当夜午後一一時四五分ころ、右正明方二階から男性の話し声が聞こえたが、別段口論している様子はなかつたことが認められる。

(三)  第四回公判調書中の証人増田正明の供述部分によると、同証人は、平素外泊することはないが、事件当夜は、たまたま万国博覧会見物のため大阪に行つており、右正明方は被害者みつる及び子供二人しかいなかつたことが認められる。

(四)  右各認定事実のほか、前記のとおり、本件火災発生時刻が午前一時四〇分ころであること、被害者みつるの被害当時の着衣は、カーディガンとスカートであつて寝巻姿でなかつたこと、同女の死体の下半身が裸体であつたこと等を総合して考察すると、被害者みつると親密な間柄の者が、事件当夜、同女の夫正明が不在であることを奇貨として深夜同女を訪問して、屋内に招じ入れられ、雑談した後、同女に肉体関係を迫つたところ、同女から抵抗されて同女を殺害した後、本件が窃盗犯人の犯行であるように階下の店舗及び風呂場に偽装工作を施し、さらに、証拠隠滅を図るべく二階に放火したうえ、階下北側出入口から逃走した可能性が大きいものといわなければならない。

なお、宮地茂雄の司法警察員に対する供述調書中には、被害現場から南に約一〇〇メートル離れた豊橋市消防署西部分遣所に勤務していた消防吏員宮地茂雄は、事件当夜午前〇時三〇分ころ、北の方角の遠方で「泥棒」という女性の悲鳴のような声を聞いた旨の供述部分があるが、被害者宅に隣接する前記井沢方や彦坂方においてはそのような声を聞いた者が見当らないこと、深夜とはいえ、被害者宅室内から発した声が約一〇〇メートル離れた右分遣所にその内容まで判別できるようにはつきりと聞こえるか疑わしいことなどに照らすと、右供述部分はたやすく信用することができないし、仮に右供述部分が真実であつたとしても、右宮地の聞いた声が果して被害者みつるの声であるか、それとも通行中の他の女性の声であるかは不明である。そうだとすると、本件犯行は、行きずりの窃盗犯人が被害者宅に侵入したうえ犯したものというよりは、むしろ、前記のとおり、被害者みつると親密な間柄にある者の犯行と考える方がより合理的であるといわざるを得ない。

二被告人が被害者宅に立ち寄つた可能性について

(一)  被告人の当公判廷における供述、第四回公判調書中の証人増田正明の供述部分、押収してある日記帳一冊(昭和四六年押第九号の一七)によると、被告人は、昭和四三年五月ころから増田正明方に店員として雇われ、自分の居住する広中アパートから同人方に通勤していたが、平素同人方において食事及び風呂の世話を受けていたほか、みつるの里帰りに同行したこともあるなど、右正明方において家族同様に扱われていたこと、被告人は、フロックベックという名称のバスケットクラブの同好会に加入し、毎日午後九時から九時三〇分ころまで、豊橋市東田町の豊橋市立東田小学校で行われる練習に参加していたが、帰宅途中、風呂に入れてもらつたり、テレビを見たりして遊ぶ目的で、しばしば右正明方に立ち寄つていたことが認められる。

右認定事実によると、被告人は、被害者みつるの家族とは極めて親密な間柄にあつたわけで、被告人が事件当夜にも被害者宅に立ち寄つたことが十分考えられるので、次にこの点について検討する。

(二)  第七回公判調書中の証人堀内貴志子の供述部分、第八回公判調書中の証人杉浦クニ子の供述部分中には、被告人は、事件発生後、現場にかけつけた近隣の人達と立ち話をしていた際、右各証人に対し、被害者宅に布団は一組しか敷かれていない旨話したとの各証言があるところ、司法警察員木村武雄作成の昭和四五年七月八日付捜査報告書によると、同年五月一五日午後一時から実施された現場検証において、初めて被害者宅二階寝室に布団が一組しか敷かれていなかつたことが判明したことが認められる。そうだとすると、被告人は、事件当夜被害者宅に立ち寄つた者でなければ知り得ない事実を認識していたことになり、そのことは被告人が事件当夜被害者宅に立ち寄つた事実を推定させるが、前記各証人の各供述部分によると、前記各証人は、被告人が如何なる経緯から「布団が一組しか敷かれていない」旨話したかについて記憶が明確でなく、殊に、被告人がいささか特殊な右内容の事柄を話す以上、当然、その前提として事件当夜被害者宅に立ち寄つたことを話すものと思われるのに、そのような重要な事柄については記憶のないことが認められるから、前記各証人の各証言の信用性はいずれも低いものといわなければならない。

(三)  被告人の自白調書中には、被告人は、事件当夜被害者宅に立ち寄り、インスタントラーメンを食べた旨の供述部分があるところ、司法警察員加藤義彦作成の昭和四五年五月二〇日付検証調書によると、被害者宅二階台所の調理台の上に中華丼一個があつたことが認められ、また第七回公判調書中の証人山口貴康の供述部分のうちにも、同証人が事件当夜被害現場にかけつけ、被告人から三〇センチメートルないし四〇センチメートル離れた位置で被告人と話していた際、被告人の口からラーメンの臭いがした旨の証言がある。

しかしながら、他方、被告人の自白調書中には、被告人は、充彦にもラーメンを二、三口食べさせてやつた旨の供述部分があるのに、医師古田莞爾作成の同年六月二五日付増田充彦の死体の鑑定書によると、充彦の死体解剖の結果、同児の胃内には、レタス、ハム、夏みかん及び夏みかんの種子等を含む内容約三〇グラムが残存していただけで、特にラーメンの存在は確認しなかつたことが認められるし、証人丹羽照邦の当公判廷における供述によると、警察官自らラーメンを食べた後、前記山口貴康に対し、自分が今何を食べてきたかを答えさせる実験をしたところ、同人はこれに正しく答えることができなかつたことが認められる。

従つて、前記証人山口貴康の証言、被告人の供述部分はいずれもにわか信用できない。

(四)  菊水模様入り靴下について

(1) 被告人の当公判廷における供述、司法警察員加藤義彦作成の昭和四五年五月一五日付捜査報告書、同月二〇日付検証調書、押収してある菊水模様入り黒色靴下一足(昭和四六年押第九号の二〇)によると、犯行現場二階台所流し台の中の直径約三〇センチメートル、深さ約一一センチメートルの合成樹脂製の洗い桶の中から、被告人が平素使用していた菊水模様入り黒色靴下一足(前同号の二〇・以下本件靴下という)が、水浸しのまま焼損していない状態で発見されたことが認められる。

(2) 前記のとおり、被告人は、増田方において家族同様の扱いを受けていたのであるから、被告人が平素使用していた靴下が同人方から発見されても不思議ではないが、右のとおり、本件靴下が洗い桶の中にあつた経緯、原因はこれを解明することが困難であり、被害者みつるは勿論被告人も食器洗いに使用する右洗い桶の中に本件靴下を入れるような不衛生なことをすることはまずあり得ない。

(3) そこで、本件靴下に関する被告人の供述内容の変遷を検討する。

被告人の当公判廷における供述、被告人の否認調書及び自白調書によると、被告人は、捜査段階において、当初犯行を否認していた際には、昭和四五年五月一四日夕方、本件靴下を自分のアパートに持つて帰つたと思う旨供述していたが、犯行を自白してからは、同日、バスケットボールの練習終了後、増田方に寄つたとき、本件靴下を手に持つて行き、これを二階応接間(六畳)南側のソファのあるところの床の上に置いた旨、あるいは、増田方に立ち寄つたとき、本件靴下をはいたまま二階に上り、これをソファの上に置いた旨供述し、公判段階においては、一四日夕方、帰宅する前に増田方の前に駐車してあつた車三台を入れ替えた際、階下出入口に近い机の上に本件靴下を置き忘れた可能性がある旨供述していること、しかし、本件靴下が右洗い桶の中にあつた原因については、捜査及び公判段階を通じ、説明できない旨供述していることが認められる。

(4) ところで、証人鬼武重寿の当公判廷における供述、司法警察員鬼武重寿の昭和四五年五月二三日付捜査報告書によると、被告人は、同月二二日、同司法警察員から事情聴取をされた際、本件靴下について尋ねられる前に、自ら、一四日に自己の靴下を店に置き忘れてきてそれが見つからなくなつた旨申し出たことが認められる。

検察官は、右申し出た事実と前記のとおり本件靴下に関する被告人の供述が変転していることなどを理由に、被告人は、本件靴下が右洗い桶の中から発見され、被告人が本件犯行の犯人と断定される危険を察知し、事態を湖塗しようとして前記のように虚偽の申出をしたものであつて、被告人の自白調書中、被告人が右主張と同趣旨の事実を自認している供述部分は十分信用できる旨主張する。

(5) しかしながら、被告人の自白するとおり、被告人が本件靴下を前記応接間のソファの上に置いたとしても、司法警察員木村武雄作成の昭和四五年五月一五日付実況見分調書によると、右ソファと右洗い桶は約1.8メートル離れていたことが認められるから、被告人が右ソファの上に置いたユニホームを勢いよく取つた際、そのはずみで本件靴下が二枚共飛んで約1.8メートル離れた直径約三〇の洗い桶の中にはいる(被告人の司法警察員に対する昭和四五年九月一六日付供述調書中には、被告人は、本件靴下が右洗い桶の中から発見された原因について、そのように思う旨の供述部分がある)ということは次の理由により経験則に照らし、極めて疑問である。即ち、応接間とその南隣りの台所とは四本の引戸で仕切られ、ソファの背後には引戸た隔ててテーブルが置かれていた(以上の事実は、司法警察員加藤義彦作成の昭和四五年五月二〇日付検証調書により認められる)ので、通常四本引戸を開ける場合には中央の二本をそれぞれ左右に開けることとなるから、ソファと流し台との中間には常に引戸が立つていたものと推認され、たとえ靴下が南方に飛んでも引戸に妨げられて流し台に達することはあり得ないのである。

(6) このようにみてくると、被告人の自白調書中の本件靴下に関する前記供述部分はにわかに信用できないものといわざるを得ない。そして、他に本件靴下が前記洗い桶の中にあつた原因と見られる事実を認めるに足りる証拠は全くないので、本件靴下が前記洗い桶の中にはいるに至つた経緯は一切明らかとならず、従つて本件靴下の存在からいきなり被告人が事件当夜被害者宅に立ち寄つたことを推認することは到底できないものといわなければならない。もつとも、被告人の本件靴下に関する供述については、前記(3)のとおり、否認調書中の供述と公判段階における供述とが相違している点に疑問が残るが、それは被告人自身本件靴下について特に意識していなかつたためであるとも考えられ、また、検察官主張の被告人が事情聴取を受けた際、自ら進んで靴下紛失の件を捜査員に申し出た事実は、なるほど被告人の自己防禦と解し得ないではないが、被告人の右所為は単に同人が自己防禦的態度を取つたことを意味し、本件靴下が洗い桶にあつたことと直接関連がない。

(五)  事件当夜被告人がテレビを見た場所について

(1) 被告人は、当公判廷において、事件当夜、バスケットボールの練習終了後、友人達と菓子店の前の路上で立ち話をし、午後一一時ころ友人達と別れ、自分の軽自動車に乗つて弟の居住している山田荘アパートの前まできたが、弟の所には寄らずに同所でUターンし、午後一一時三〇分前(第二回公判期日において、午後一一時半前後ころと供述している)に広中アパートの自分の居室に帰り、部屋にはいつて間もなくテレビのスイッチを入れてから、便所に行つた後、洗面所で手と顔を洗い、部屋に戻つてパジャマに着替え、整髪などし終わつてテレビを見ると、イレブンPMの番組をやつており、印象に残つている場面は、魚が蛇を食べたり、ピラニヤが金魚を食べたり、人間がピラニヤの天ぷらを食べる場面であり、その後テレビのスイッチを消して午後一二時過ぎころ寝たのであつて、増田方には立ち寄つていない旨供述し、右軽自動車を駐車した位置については、広中アパート南前の東西に通ずる道路の南側に西向きに駐車したが、その前に二台の車両が駐車しており、先頭車両は軽貨物自動車、二番目の車両は緑色の普通自動車(ブルーバード)であつた旨供述している。

(イ) 第六回公判調書中の証人仲原廣の供述部分中には、同証人が、事件当夜午前零時ないし午前一時前ころ、友人田中好久を自分の自動車に乗せて右田中の居住する広中アパートまで送つてきたところ、同アパート前路上に二、三台自動車が駐車しており、その中に黄色の自動車(後記のとおり、被告人の軽自動車は黄色である)はなかつた旨の証言があるが、他方、同証人の他の供述部分中には、右駐車車両の色については判然としない旨の証言もあり、同証人の右駐車車両についての記憶が鮮明でないうえ、同証人が、右駐車車両の中に黄色の車両がなかつたことのみ明確に記憶していることは不自然である。従つて、同証人の前記証言はにわかに信用し難い。

(ロ) ところで、第五回公判調書中の証人石黒外規、同内藤朝夫の当公判廷における各供述によると、被告人は、事件当夜、バスケットボールクラブの練習終了後、クラブの同僚である石黒外規及び内藤朝夫と共に菓子店でジュース等を飲み、同店前路上で暫く立ち話をし、午後一一時ころ同人らと別れ、被告人所有の黄色の軽自動車(ホンダN三六〇)で帰つたことが認められる。

そして、司法警察員杉村薫作成の昭和四五年九月三〇日付実況見分調書によると、被告人らが立ち話をした豊橋市老松町一四九の二番地菓子タバコ小売店松屋菓子店こと大森司方前路上から、被告人の弟森昭雄が居住していた同市野黒町四四の二番地山田荘アパートまで、及び被告人の自白調書により、被告人が事件当夜増田方に立ち寄つた際、自分の軽自動車を駐車しておいたと称する同市八通町五〇番地の二鈴木医院前路上を経て、被告人の居住していた同市羽根井本町一一二番地広中武司方広中アパートに至るまでの距離関係、並びに、午後七時ないし九時ころ自動車に乗つて時速五〇キロメートルで右経路を走行したときの所要時間は、松屋菓子店から山田荘アパートまでが約3.7キロメートルで七分ないし八分、山田荘アパートから鈴木医院までが約0.55キロメートルで約二分、鈴木医院から広中アパートまでが0.272キロメートルで約一分であることが認められる。

従つて、被告人が、事件当夜、前記被告人の供述のとおりの道順で増田方に立ち寄らずにそのまま広中アパートに帰つたとすると、帰宅時刻は午後一一時一〇分ないし一五分ころになるはずである。

(ハ) また、司法警察員近藤正道作成の昭和四五年八月三一日付捜査報告書、押収してあるイレブンPMの台本一冊(昭和四六年押第九号の一六)によると、被告人が事件当夜テレビで見たイレブンPMという番組は、事件当夜である昭和四五年五月一四日午後一一時一〇分から翌一五日午前零時二〇分まで名古屋テレビで白黒画像で放映されたものであり、当日の題名は「強い者が勝ち、屋島山上は源平のならい」であつたが、被告人が特に印象に残つていたと称する部分は、「強い者が勝ち」という内容の最初から最後までの全部分で、この部分は、午後一一時三二分一五秒から一一時四三分四五秒まで放映されたことが認められる。そして、右放映の内容と被告人の右の点に関する供述内容(後掲(2)の供述も含む)とは符合するので、見た場所がいずれであるかとの点を除き、被告人が右テレビ番組の放映を見たことは確実であると認められる。

(ニ) そして、第八回公判調書中の証人増田征代の供述部分によると、被告人が自認するとおり、事件当夜(五月一五日午前二時過ぎころ)右広中アパート前路上に駐車してあつた車両の最後尾は、被告人の軽自動車であつたことが認められ、さらに、第五回公判調書中の証人星野忠夫の供述部分、鈴木照二の司法警察員に対する供述調書、天木孝雄、楢野光代の司法巡査に対する各供述調書によると、星野忠夫は、事件当夜午後一一時一五分ころ、豊橋市北島町字北島五〇番地の一喫茶店コインで友人鈴木照二及び天木孝雄と別れ、自分の軽貨物自動車で帰宅する途中、銭湯に寄つたが、閉店していたので、右広中アパートの自室に帰り、テレビを見ると、午後一一時三〇分から始まる相撲ダイジェストの番組が既に始まつていたことが認められる。

(ホ) 以上(ロ)、(ハ)、(ニ)の各認定事実を対比検討すると、前記広中アパート前の駐車車両の位置関係から、被告人が、事件当夜、前記星野よりも遅く帰宅していることは明らかであり、前記星野は、同夜午後一一時三〇分前後に帰宅したと推認されるので、被告人の帰宅時刻は午後一一時三〇分ころより後でなければならない。しかし、被告人が、前記供述どおり、広中アパートの自己の居室に帰つてから便所に行き洗面をすませてパジャマに着替えるなど寝仕度をしたのが事実とすれば、そのために少なくとも数分を要したものと考えられるので、イレブンPMの番組のうち「強い者が勝ち」という内容の放映部分を自室で最初から見ることは殆ど不可能に近いこととなる。この事実に、前記(ロ)の被告人が寄り道をせずに帰宅したとすれば午後一一時一〇分ないし一五分ころには広中アパートへ到着していなければならないことを合わせ考えると、被告人は、帰宅前に寄り道をして、いずれか他の場所で右イレブンPMの番組放映を見たことも十分考えられる。しかし広中アパートの自室及び被害者方以外の場所で同番組放映を見た旨の被告人の供述は全く存在しない。

(2) そこで、翻つて、被告人が事件当夜、被害者宅に立ち寄り、同家のテレビでイレブンPMの番組放映を見た可能性について検討する。

(イ) 証人鬼武重寿、同堀内誠の当公判廷における各供述、被告人の司法警察員に対する昭和四五年八月二七日付供述調書によると、被告人は、逮捕前における警察官の取調べの際、事件当夜、広中アパートの自室に帰つてテレビを見ると、名古屋テレビのイレブンPMの番組が始まつた直後位と思われ、最初泡のような点々で題字がでてから、魚が蛇を食べるところや、ピラニヤが金魚を食べるところや、人間がピラニヤの天ぷらを食べるところなどが放映されたが、途中で中京テレビに切り換えたところ、最初に切り換えたときには、相撲ダイジェストの番組はまだ始まつていなかつた旨供述したことが認められる。しかして、司法警察員近藤正道作成の昭和四五年八月三一日付捜査報告書によると、事件当夜のイレブンPMの番組放映の際、題字は番組の最初と最後の二回しか出なかつたことが認められる。従つて、被告人の右供述を真実とすると、被告人は、事件当夜イレブンPMの番組放映を最初から見ていたことになるところ、証人丹羽照邦の当公判廷における供述によると、焼け残つた被害者宅のテレビのコンバーターを捜査したところ、右テレビは名古屋テレビ(イレブンPMの番組)の放送に同調した状態でスイッチが切られていたことが認められる。

以上を合わせ考察すると、被告人は事件当夜被害者宅に立ち寄り、同家のテレビでイレブンPMの番組放映を見たのではないかと疑う余地がある。

(ロ) ところで、証人天日正次の当公判廷における供述によると、捜査本部は、被告人の自白に基づき、被告人が、事件当夜、被害者宅に立ち寄つた際、自己の軽自動車を駐車させたと称する被害者宅から近距離にある前記鈴木医院の前付近を、右軽自動車が駐車していたと思われる時刻の時間帯(約二時間)に通行した者二〇数名に対し、右軽自動車が同所に駐車していたのを目撃したか否かについて捜査したが、目撃者は一人もいなかつたことが認められる。しかし、被告人の軽自動車を駐車させた場所についての右自白内容が必ずしも真実であるとはかぎらないから、捜査本部の右捜査結果から、直ちに、被告人が事件当夜被害者宅に立ち寄り、同家のテレビでイレブンPMの番組放映を見たとの前記疑問が解消されるものでもない。

(3) 以上(1)及び(2)の検討結果を総合すると、事件当夜の午後一一時過ぎころから被告人が被害者方においてイレブンPMの番組放映を見たとは断定できないけれども、その可能性のあることは認められる(前記被告人の公判廷における供述のとおり、被告人が事件当夜一一時三〇分前に広中アパートに帰つたとすると、前記星野忠夫の帰宅時刻に非常に接着した時刻に広中アパートに帰つていることになるが、被告人が被害者宅に立ち寄つたか否かの認定が本件犯行と被告人との結びつきについてその判断を左右する要因の一つとなることに鑑みるとき、本件のように極く短時間の出来事の前後関係をその記憶内容の真実性が疑わしい証言によつて確定し、その事実から、右重要な事柄を推認することには、特に慎重でなければならない)。

(六)  まとめ

叙上のとおり、被告人は、事件当夜午後一一時過ぎころ、被害者宅に立ち寄つた可能性のあることが認められる。しかし本件火災発生時刻が午前一時四〇分ころであることに徴すると、被告人がイレブンPMの番組放映終了後間もなく被害者宅から広中アパートの居室に帰つたとすれば、その後右出火時刻までの間に第三者が本件犯行を犯す余地も十分存するわけであるから、被告人が被害者宅に立ち寄つた可能性があることは、単に被告人が本件犯行を犯した可能性があることを推論する資料の一つとなるにすぎない。

そこで、次に、本件犯行と被告人との結びつきについて検討する。

三本件犯行と被告人との結びつきについて

(一)  被告人の受傷の有無

(1) 検察官は、事件発生直後の昭和四五年五月一五日の検証に立ち会つた被告人の左眼下眼尻に長さ一〇ミリメートル、幅五ミリメートルの稍腫脹した擦過傷一個、両手甲中央部付近に各数個の米粒大の赤く腫れた傷(左手四、五個、右手二、三個)があることが、司法警察員鬼武重寿により現認されたが、被告人は事件当夜のバスケットボールの練習のときに受傷したことはなかつたから、右各傷害は、本件犯行の際、被害者みつるの抵抗により生じたものであると考えられる旨主張し、証人鬼武重寿の当公判廷における供述、司法警察員鬼武重寿作成の同月一六日付捜査報告書は、いずれも右主張に符合する。また、第五回公判調書中の証人石黒外規、同内藤朝夫の各供述部分、加藤隆太郎の司法警察員に対する供述調書によると、被告人が、事件当夜のバスケットボールの練習の際、受傷した事実はなかつたことが認められる。そして、司法警察員鬼武重寿作成の前記捜査報告書によると、被告人は、事件発生直後の検証の際、前記鬼武重寿から被告人の左眼の下と手の甲の傷の受傷原因について質問され、バスケットボールの練習のときに負傷した旨答えたことが認められ、被告人の否認調書中にも、被告人自身、左眼の下に少し擦過傷があつたことに気ずいた旨の供述部分がある。

(2) しかし、被告人の当公判廷における供述、証人天日正次の当公判廷における供述によると、警察官天日正次は、事件発生直後、被告人を取調べた際、被告人の受傷に気ずかなかつたが、現場検証班から被告人が受傷している旨聞知したので、部下の警察官板津某にその確認に行かせたところ、被告人は、眼の縁が少し赤くなり、手の甲にぶつぶつがあつた程度で、特に擦過傷等の傷害は確認できなかつた旨報告を受けたことが認められる。仮に、被告人が自白したように、被害者みつるの抵抗にあつて受傷したとするならば、被告人の供述するところによれば、殺害時に被害者の手は自由な状態にあつてコードで被害者の首を押しつけていた被告人の手をつかんで取ろうとしたものであるから、必死の際の抵抗であるかぎり、検察官主張のような極めて軽微な傷害の程度に留まらずより顕著な傷害を受ける蓋然性が大きいものというべきである。従つて、右認定事実に照らすと、被告人が受傷していた旨の検察官の主張に符合する前記各証拠はいずれもにわかに信用できない。

(3) しかして、他に被告人が受傷していたことを認めるに足りる証拠はないので、被告人が事件発生当時検察官主張のような傷害を受けていた事実を認めることはできず、従つて右受傷を前提とする前記検察官の主張は採用できない。

(二)  被告人の本件火災発生後の言動

右に関する証拠として、第七回公判調書中の証人堀内貴志子の供述部分のうちには、被告人は、火災現場で消火活動に従事しようとしなかつた旨の証言があり、また、山本重彦の司法警察員に対する供述調書中には、被告人は、火災現場にかけつけた山本重彦から、「奥さんと子供が死んでいるらしい。」と聞かされた際、平然とした態度で「ふん」と言つただけであつた旨の供述部分がある。しかしながら、第七回公判調書中の証人大場廣作の供述部分のうちには、本件火災現場の状況は、消火の手伝いができる状態ではなく、被告人は、身体を震わせ、心配顔をしていた旨の証言があるから、前記証人堀内貴志子の証言及び前記山本重彦の供述部分は、にわかに信用できない。そして、仮に被告人が消火活動に従事せず、平然としたからといつて、そのことは必ずしも被告人が本件犯行を犯したことを推定させるものではないし、前記のとおり、本件殺人の犯行後、犯人によつて種々の偽装工作、証拠隠滅工作がなされていることに照らして勘案すると、被告人が犯人であれば、自己に嫌疑がかかるのを避けるため、率先して消火活動をすることの方が経験則上しばしば認められるところである。

そして、他に、被告人の本件火災発生後の言動において、特に異常な点があつたことを認めるに足りる証拠はない(被告人が、火災現場にかけつけた者に対し、被害者宅に布団が一組しか敷かれていない旨話したか否かについては、前記二の(二)で検討済みである)。

(三)  犯行の動機、被告人の性格等

(1) 本件公訴事実によると、本件犯行の動機は、「被告人は、昭和四四年ころから性的刺激の強い週刊誌、雑誌等を読みふけり、異性との肉体関係に異常な関心を持つようになつていたところ、事件当夜、増田方は主人の正明が万国博覧会見物のため大阪に出かけ、同人の妻みつる及び子供二人しかいないことを知り、この機会を利用して右みつるを強姦して性的欲望を満足させようと企てた」というのである。

(2) なるほど、第二回公判調書中の被告人の供述部分、押収してある雑誌及び週刊誌合計八一冊(昭和四六年押第九号の二二ないし一〇二)によると、被告人は、昭和四五年五月当時、性的関心が強かつたことが認められ、また、被告人の当公判廷における供述によると、増田方において店員として稼働していた被告人は、事件当夜、正明が万国博覧会見物に出かけたことを当然知悉していたことが認められる。

しかしながら、被告人が、雇主正明の妻みつるに対し、特別な好意を懐き、機会があれば同女と肉体関係を結ぶことを強く望んでいたことは、被告人の自白調書以外にはこれを認めるに足りる証拠はない。そして、被告人の当公判廷における供述、片桐朗子、鈴木きみ、大沢章之の司法警察員に対する各供述調書によると、被告人は、内向的でおとなしい性格であることが認められるほか、前記のとおり、被告人は、犯歴がなく、平素、増田方において家族同様の扱いを受けていた事情等を総合して考察すると、被告人が性的関心が強く、事件当夜、正明が不在であつたことを知悉していたとしても、これを好機としてみつるに対し強いてでも肉体関係を求めようとする行動に出ることが予測されるためには、被告人が予てみつるに対し異性として愛情を抱いていたとか、あるいは女性関係において素行不良であつたなどの特別の事情の存したことが必要であつて、右のような事情の認められない本件において、直ちに被告人に本件犯行の動機の存在を認めることは相当でない。

(四)  血液型について

そこで、最後に、被害者みつるの着衣及び同女の死体の上に置かれた衣類等に付着した血痕等の血液型について検討する。

(1) <証拠>によると、次の各事実が認められる。

(イ) 事件発生直後の実況見分の際被害者みつるの死体は、下半身裸体で、両足を八の字に開いた仰臥の姿勢であつたが、頸部に電気コード(前同号の六)が六回巻きつけられていた。

(ロ) 右死体の両眼の目頭と鼻根は充血し、鼻孔からは血液の混つた体液が出ていたほか、右耳に長さ1.5センチメートルの創傷、右耳後面に長さ0.7センチメートル、同1.2センチメートル、同2.3センチメートルの各創傷があるが、右各創傷は、いずれも鈍体打撲による挫裂創と認められる。そして、右耳殻には血液が濃く付着し、耳殻の後部の創傷から血液が流出していた。また、左胸部二か所に表皮剥脱があり、赤くなつていた。

(ハ) 同女の腟内容について検鏡した結果、数視野に一個の精子が認められたが、同女の死亡直前に姦淫行為があつたか否かは明らかではなく、また腟内容から血液型は判明しなかつた。

(ニ) 同女は、女物シャツ(昭和四六年押第九号の九)の上にシュミーズ(前同号の八)を着、その上に女物カーディガン(前同号の七)とスカート(前同号の一〇)を着ていたが、右衣類全部が、乳房付近までまくれ上つていた。そして、右カーディガンのボタン七個のうち、最上部から二番目ないし四番目の各ボタンのみボタン穴にかかつており、最上部のボタンは、前記電気コードに巻き込まれていた。

(ホ) 同女の死体の右大腿部に、パンティー(前同号の一一)及びガードル(前同号の一二)が、右足のみに通り、左足は脱いだ状態で残存していた。

(ヘ) 同女の死体の顔面上半分に、幼児用上つぱり(前同号の一)が鼻孔に接して置かれ、その上に幼児用ズボン(前同号の一〇四)が被せてあり、その端は右耳に当つていたため、多量の血液で濡れていた。右幼児用ズボンの上には、顔全体を覆うように大人用ネグリジェが置かれ、その上に男物パジャマ上衣が置かれていた。そして、同女の死体の右胸部付近に大人用ブラウス等の衣類やハンカチが置かれ、上半身に布団が被せられていた。

(ト) 同女の陰部には、男物パンツ(前同号の二)が当ててあり、右パンツは、右陰部に当つた個所に長さ約一〇センチメートル幅約一〇センチメートルに亘つてうす黒く液様のものが付着した汚れがあつた。そして、同女の死体の下半身から足部にかけて、多数の衣類や風呂敷等が雑然と被せられ、その上に布団が被せられていた。

(チ) 敏彦及び充彦の死体には、火傷の他に、生前の著しい損傷は認められなかつた。

(リ) 血液型の検査によると、被告人はA分泌型、みつるはOMN型、敏彦はBM型、充彦はBMN型、正明はBM非分泌型である。

(2) そして、証人城三男の当公判廷における供述(以下城証言という)、愛知県警察本部犯罪科学研究所技術吏員城三男作成の昭和四五年九月一八日付鑑定書(以下城鑑定書という)によると、被害者みつるの着衣及び同女の死体の上に置かれた衣類等に付着した血痕等に関する鑑定結果は、次のとおりであつたことが認められる。

(イ) 幼児用上つぱり(前同号の一)表部やや中央に人血痕の付着が認められ、該部の血液型はやや弱いがA型の反応を呈する。精液の付着は証明できない。

(ロ) 幼児用ズボン(前同号の一〇四)裏側上方に約一四センチメートル×約一四センチメートルの一部赤褐色を呈しその余は灰黒色を呈する汚染部分(部分)、左膝部に相当する場所に約一二センチメートル×約五センチメートルの灰黒色の汚染部分(部分)、及び部分の反対側上方に約五センチメートル×約三センチメートルの暗灰色の汚染部分(部分)と約8センチメートル×約6.5センチメートルの暗灰色の汚染部分(部分)があり、右各汚染部分に血痕の付着が認められる。人血検査については、部分は陽性と認められるが、、及び部分は、極くわずかに陽性と認められる。部分の血液型はB型と認められる。精液の付着は証明できない。

(ハ) 女物カーディガン(前同号の七)の第一、二各ボタンに人血痕の付着が認められるほか、唾液痕による反応がわずかに陽性と認められ、該部の血液型はB型と認められる。その他やや全体に血痕の反応が認められる。精液の付着は証明できない。

(ニ) 男物パンツ(前同号の二)の右前横から右後部にかけて血痕の付着が認められるが、人血か否か判定できない。右後部に約一二センチメートル×約一二センチメートルの不定形な班痕が認められ、該部について酸性燐酸酵素の反応(精液の存在を証明する反応)は認められないが、検鏡すると、極くわずかに精子の頭部と思料されるものが認められ、また、該部の血液型は、一部不確実なところもあり断定し難いが、B型の反応を呈する。

(ホ) シュミーズ(前同号の八)、シャツ(前同号の九)、スカート(前同号の一〇)に人血痕の付着が認められ、いずれもO型反応を呈する。精液の付着は、いずれも証明できない。

(へ) 男物パジャマ上衣に血痕の付着が認められるが、人血痕か否か判定できない。精液の付着は証明できない。

(ト) ネグリジェに人血痕の付着が認められ、該部の血液型はO型の反応を呈するが、断定はできない。精液の付着は証明できない。

(チ) その他の衣類等については、いずれも血痕及び精液の付着を明確に証明できない。

(3) 右のとおり、被害者みつるの着衣及び同女の死体に被せられた衣類等の一部にA型、B型、O型の各血液型反応が認められる。そして、明らかにO型の血液型反応を呈したのは、シュミーズ、シャツ及びスカートであるが、これらはいずれもみつるの着衣であるところ、同女の前記血液型、受傷状況に照らすと、右各着衣に付着した人血痕は、同女の血痕と推認できる。

そこで、次に、やや弱いがA型の血液型反応を呈した幼児用上つぱり、B型の血液型反応を呈した幼児用ズボン及び女物カーディガン、一部不確実なところもあり、断定し難いがB型の反応を呈した男物パンツについて検討する。

(4) 幼児用上つぱり、幼児用ズボン、女物カーディガン

(イ) 前記のとおり、右幼児用上つぱりは、被害者みつるの顔面上半分に鼻孔に接して置かれていたが、同女の鼻孔からは、血液の混つた体液が流出していたのであるから、右血液及び体液が右幼児用上つぱりに付着した蓋然性が大きいものと考えられるところ右幼児用上つぱりの血痕付着部分からは、みつるの血液型であるO型ではなく、やや弱いA型の血液型反応しか認められていない。

また、前記のとおり、右幼児用ズボンは、みつるの死体の顔面上半分に置かれ、その端は右耳に当つていたため、多量の血液で濡れていたのであるから、右幼児用ズボンには、同女の血痕が付着した蓋然性が大きいものと考えられるところ、右幼児用ズボンの血痕付着部分からは、みつるの血液型であるO型ではなく、B型の反応しか認められていない。

さらに、前記のとおり、被害者みつるの胸部には、表皮剥脱が二か所ある以外特に損傷が認められないにもかかわらず、乳房付近までまくり上げられた同女のシャツ、シュミーズ及びスカートに同女の血痕が付着していたことからすると、右血痕は、同女の鼻血又は右耳又は右耳後部の各創傷から流出した血液であることの蓋然性が大きいものと考えられ、そうだとすると、右女物カーディガンはシャツの上に着用されていたのであるから、右鼻血等が右カーディガンに付着した蓋然性も大きいものと考えられるところ、右カーディガンの第一、第二各ボタンの血痕付着部分からは、みつるの血液型であるO型ではなく、B型の血液型反応しか認められていない。

(ロ) しかし、城証言及び城鑑定書によると、右各衣類の血液型検査には、いずれも解離法が用いられたところ、右検査方法は、A作用血球及びB作用血球の凝集反応によつて血痕又は体液の血液型を判定するもので、例えば、A作用血球側に凝集がある場合はA型、B作用血球側に凝集がある場合はB型、A作用血球側及びB作用血球側にいずれも凝集がある場合はAB型、A作用血球側及びB作用血球側にいずれも凝集がない場合はO型とそれぞれ判定されることが認められる。

(ハ) そうすると、右幼児用上つぱりには、血液型O型の血痕又は体液と共に血液型A型の血痕又は体液が付着して混合し、右幼児用ズボン及び右女物カーディガンには、血液型O型の血痕又は体液と共に血液型B型の血痕又は体液が付着して混合していた場合、右各衣類の血液型反応は、右幼児用上つぱりについてはA型反応、右幼児用ズボン及び右女物カーディガンについてはB型反応を呈することになる。

(ニ) 従つて、右幼児用上つぱりには、被害者みつるの血痕又は体液と共に血液型A型の血痕又は体液が付着して混合し、右幼児用ズボン及び右女物カーディガンには、同女の血痕又は体液と共に血液型B型の血痕又は体液が付着して混合した蓋然性が大きいものと考えられる。

(ホ) 右のとおり、右各衣類に付着した血液型がA型の第三者及びB型の第三者の血痕又は体液は、被害者みつるの血痕又は体液と混合している蓋然性が大きいものと考えられるところ、両者の付着時期の疑問、前後については、後者はみつるの受傷状況に照らして本件犯行時であることが明らかであるが、前者は城鑑定書も血痕の鮮度その他につき何ら言及していないのでその付着時期が明らかでなく、かつ、付着した経緯も証拠上明らかでない。殊に、本件犯人が、犯行時に被害者みつるの抵抗等によつて受傷した事実が確定されていないことを合わせ考えると、右第三者の血痕又は体液が犯人のものであるとの推定は到底できないことになるから、結局これを本件犯人の血液型の認定証拠とすることはできない。

(へ) 従つて、右幼児用上つぱりについてA型の血液型反応が認められているが、右事実は、畢寛、他の証拠により血液型がA型である被告人を本件の犯人であると認定する場合に、その認定の妨げとならない事実であるにすぎない。いわんや、被告人の血液型及び右幼児用上つぱりに付着した血痕又は体液の血液型について、ABO式のみならずMN式など、より詳細な分類がなされていない本件にあつては、右幼児用上つぱりに付着した血痕の前記鑑定結果をもつて、被告人を本件犯人であると積極的に推認する資料とすることは到底できない。

他方、右幼児用ズボン及び右女物カーディガンについてB型の血液型反応が認められているが、本件犯行との関連性が不明であるため、右事実が、他の証拠により被告人を本件の犯人であると認定する場合にその障害となるものではない。

(5) 男物パンツ

(イ) 前記のとおり、男物パンツについては、「右前横から右後部にかけて血痕の付着が認められるが、人血か否か判定できず、また、右後部に不定形な長痕が認められ、該部について酸性燐酸酵素反応は認められないが、極くわずかに精子の頭部と思料されるものが発見され、該部の血液型は一部不確実なところもあり断定し難いがB型の反応を呈する」旨鑑定がなされている。

(ロ) ところで、本件犯行現場は、火災及びその後の消火活動による放水という特殊状態の下におかれたのであるから、被害者みつるの着衣及び同女の死体の上に置かれた衣類等に付着した血痕及び体液に火熱、水等が作用したことが、右血痕及び体液に関する正確な鑑定をなすについて、その妨げとなつていることは十分推測されるところである。このことと、右男物パンツについての鑑定結果(意見)の内容が前記のとおり極めてあいまいなものであることとを合わせ考えると、右男物パンツの汚染部分の血液型反応をB型であると断定したうえ、その後の推論を進めることは相当でないと考えられる。けだし、血痕又は体液の血液型の鑑定結果のように、科学的に証明された事実に基づいてなされる推論結果は、裁判所の心証形成のうえに重大な影響を及ぼすものであることに鑑みるとき、右推論の基礎となるべき右科学的鑑定は、その経過、結果共にあいまいなものであつてはならないからである。

(ハ) 従つて、右男物パンツの汚染部分の血液型に関する前記鑑定は、被告人と本件犯行との結びつきを認定するうえの消極的情況証拠として、その証拠価値は極めて乏しいものと認めるのが相当である。

なお、付言するに、増田正明の司法警察員に対する昭和四五年九月二九日付供述調書によると、右男物パンツは、被害者みつるの夫増田正明が事件当時使用していたものではないことが認められるが、他方、被告人が事件当時右男物パンツを着用していたことを認めさせる証拠もなく、その他その所有者を認めるに足る証拠はないので、右男物パンツが犯行現場に存在した事実から、いきなり本件犯人が誰であるかを推定することはできないものというべきである。

(6) まとめ

叙上のとおり、被害者みつるの着衣及び同女の死体の上に置かれた衣類等に付着した血痕等の血液型に関する前記鑑定結果は、本件犯行と被告人との結びつきを判断するうえにおいては、鑑定材料の不十分、条件的不適当に基因すると思料される鑑定内容の詳細性の欠如により証拠価値が十分でないから、右判断を左右するに足りない。

第五結論

本件は、殺人、窃盗、放火等の各公訴事実につき目撃証人等の直接証拠を欠く事件であつて、犯人と被告人との結びつきを証明すべき直接証拠は被告人の自白しかない場合であり、特に被告人は捜査段階で自白し、かつ第一回公判期日の冒頭手続においても「公訴事実のとおり相違ない」旨陳述したが、第二回公判期日においては一転して自己の無罪を主張したことは前示のとおりであるから、この被告人の自白、特に自白調書を証拠として被告人を有罪とするには、その自白に任意性及び信用性のあることと、自白以外の証拠、すなわち補強証拠のあることを要し、自白と補強証拠と相俟つて犯罪事実を認定することができればよいのであるが、この場合自白の証明力と補強証拠の証明力とは相関関係に立ち、一方の証明力が大であれば、他方の証明力は小で足りるものと言うべきである。

本件の場合、被告人が、被害者方の店員であつて平素家族同様の待遇を受けていたため、家庭内の事情に明るい立場にあり、そのことが自白の真実性を検討する際の障害の一つとなつていることは否定できないところ、前記認定判断のとおり、被告人の自白は、任意性はこれを肯認でき、従つて、証拠能力は否定されないが、その信用性を検討すると、供述内容に変転があり、供述内容と客観的状況との間に数々の矛盾が認められ、供述のうちに犯人のみが知る事実であつて他の証拠により裏付けられたものはなに一つ含まれていないなどの理由によつて、被告人の自白が真実であることに合理的な疑いが存するから、信用性が高いものということはできず、従つて、証拠価値は高くないというべきである。他方、情況証拠を検討した結果、本件は被害者みつると親密な間柄にある者の犯行と推認されること、被告人が事件当夜被害者宅に立ち寄つた可能性のあることが認められるところから、被告人を本件の犯人の立場に極めて近い者とみることができるけれども、被告人と犯人との同一性を証明する物証は一つとして存在せず、自白の真実性を保障するに足る補強証拠としての機能を果す情況証拠は見当らないので、被告人が第一回公判期日に自認の供述をした事実を考慮に入れても、なお被告人を本件犯行の犯人と断定することは困難であるから、本件は、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、各公訴事実につきいずれも犯罪の証明が十分でないとして、刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(鷲田勇 鈴木照隆 飯田敏彦)

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